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2019-08-28

『銀河鉄道の父』(門井慶喜 著)


宮沢賢治先生に関心を持ち始めたのは、緒方直人さん主演の映画『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』を見てからだ。その人物像に大そう心を惹かれた。

その後、夫の転勤で東北地方にむことになった私は、図書館に通い、賢治先生の著書や研究書などを読み、ますますその人柄や表現の世界に憧れを抱くようになった。とはいえ、その独特の表現は難解で、絵本程度の長さの物語でないと読みこなせない。文学部出身のくせに情けない。それでも、なぜか賢治先生への敬愛の念は増すばかりである。

そんな私の前に、そのお父様の物語が現れた。もちろん読んでみた。

そこには、懐かしく温かい東北弁で語り合う賢治先生ご家族の生活があった。息子を愛する父の姿があった。その愛の深さに感動し、何度も涙を拭いながら読んだ。『永訣の朝』で詠まれた妹とし子が亡くなる場面でも、先生ご本人が亡くなる場面でも、泣いた。著者の筆力にぐいぐいと物語に引き込まれ、読み切った。読み応えのある、面白い物語であった。

しかし、しかしである。妙に腑に落ちない。今、読み切って感動した物語の台詞のひとつひとつ。賢治先生が実際に言ったわけではない言葉を、なぜ勝手に書いているのだ。

いや、当たり前ではないか。伝記にしても歴史小説にしても、その台詞は、小説家の先生が史実や人柄を丁寧に調べあげて、物語として創造するものである。これまでも、実在の人物ゆえのリアリティを持つ歴史小説が好きで、好んで読んできた。小説だけでなくテレビの大河ドラマも好きだが、その台詞を聞いて、「さも本人が言ったように、勝手に言わせていいのか」と憤りを感じたことなど一度もなかった。漫画『ベルサイユのばら』に至っては、実在のマリー・アントワネットと親しげに交流する架空の人物オスカルとアンドレを、熱狂的に受け入れたものだ。

つまり、賢治先生だからなのだ。読むものを感動させている言葉、色々な場面で発せられる言葉が、先生ご本人の、本当の言葉ではないことに、憤りを感じているのだ。当たり前のことなのに、腹立たしいのだ。他の登場人物については、別にどうでも構わないというのに。

なぜそれ程までに先生ご本人のお言葉を熱望しているのか、自分でも分からない。しかし、この小説を読んで、この変な執着に気づいたことによって、自分がどれほど宮沢賢治先生を敬愛しているのかを再認識することになった。


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